matsunaeのブログ

親鸞を書きたい。随筆として書いたら良いのか?小説として書いたら良いのか考慮中

謎の国 楼蘭(三)甦った墓地

一九三四年、中国政府から依頼を受けた、スウェーデンの考古学者ベリマン(ヘディン調査団の一人)が、地元の漁師オルドックの案内で、タクマラカン砂漠の中を流れる孔雀河を遡っていると、砂丘の向こうに高い枯れた木の柱が無数に立っているのを発見した。
 柱は長い年月、強風に晒されて亀裂が入っている。近づいてみると、足元には人骨や毛織物が散らばっており、なかには木で作られた[木屍]の破片もある。これは貪欲な黄金探しと、何世紀にもわたる砂嵐によって酷く破壊されている。棺なども壊れてむき出しになっていた。略奪された五つか六つの棺には、まだ遺体があったが、その他のものは、棺の外に散らばっていて、ほとんどが骸骨になっていた。
 この場所に死者を葬った民族が、どういう人種に属するかを決定することはまだ不可能であった。中国人でないことは明らかだと思われる。死者の中には、遊牧民がかぶっているものと同じ形をした尖り帽子を被っている人物もいる。服装は粗い毛織のマント、腰に巻いた帯、フェルトの帽子などから成っていた。
 少し離れた他の場所も掘ってみたが、しかしながら此のメサ(沈積物が侵蝕されて残った硬い塊)の粘土はまるでレンガのように硬かった。そこでキャンプまで斧を取りに行って、それで硬い所を切り拓いた。
 最初は斧で、次には鋤(すき)で土を取り除いた。棺の蓋はきれいになったが、棺は粘土にぴったりくっついていて、いま掘った穴をもっと大きくしないことには、とても上まであがらないことが分かったので、粘土の壁を削り取ることに決めた。散々苦労をしたあげく、 遂に最後の障害を取り除き、棺を丘の上まで持ち上げることが出来た。
 棺の型は水の多い地方に特有なもので、舳先(へさき)と艫(とも)を切り落とし、舟の形に作ってある。
ベリマンは二千年もの間、眠り続けて来た遺体を見ようと、熱心に待ち続けた。やがて頭が隠れている部分が取り除かれた。
 そしてベリマンは見た。美(うるわ)しい楼蘭の淑女を……。うら若き女は愛する人々に守られて、遥か後代の者たちが呼び醒ますまで、永い眠りに憩うていたのである。彼女は瞼を閉じ、幾世紀ものあいだ消えずにいた微笑を今もなお浮かべており、神秘な魅力を漂わせている。
 しかも彼女はその生涯の秘密を語ろうとはしない。湖の春のきざし、舟での川旅などの想い出も、全てメサの中へ持ち去ってしまったのである。
 しかし彼女は、匈奴やその他の蛮族との戦闘に出発する守備隊や、射手と槍兵を乗せた戦車、その他、楼蘭を通過した大キャラバン、シルクロードを通って高価な絹の荷を西洋へ運ぶ無数のラクダの列。それもこれも全て、彼女は瞼の中へしまい込んで眠っていたのだ。
 ベリマンらは、彼女が土に委ねられたときに纏っていた、着衣の徹底的な調査を始めた。上体は麻の肌着で包まれ、その下にこれと似た黄色い絹の服を何枚か着ていた。胸は刺繍で飾られた赤い絹の布で隠され、青色の地の肌着がそれに続いていた。体の下の部分は、二重の絹で覆われているが、これは一種のスカートで、黄色い絹の肌着の続きになっていた。
 ベリマン達は、この未知の若い淑女を、一夜棺に入れたまま星明りの中に置いた。朝、陳(ちん)は陽光のなかで[砂漠の貴婦人]の写真を撮った。それから彼女は再び土の中に降ろされた。
未知の女性及び、この驚くばかりに現実的な往時との触れ合いに別れを告げてから、ベリマン達は第七七キャンプへ引き揚げた。
 ベリマン達は孤独な墓を後にした。その墓の際で砂漠の女王は、二千年後の一夜を星明りの中でまどろんだのであった。
……そしてベリマンは、小河墓遺跡の規模の大きさや、特異な墓葬形式を紹介し、世界
考古学界で大きな反響を呼んだ。
ベリマンが小河墓遺跡を発見して以来、砂に埋まったまま第二次世界大戦や、中国の動乱によりいつしか忘れ去られ、その場所さへ分からなくなっていたが、小河墓遺跡が砂漠の中で再び発見されたのは、半世紀以上たった二千年十二月のことである。
 新疆文物考古学研究所の王炳華研究員が、深圳のテレビクルーに同行し、GPSなどを用いて、ついに小河墓地を探し当てたのだった。

謎の国 楼蘭(二)ロブ湖の存在

一八九七年頃、世界の地理学会では、ロプ・ノールがタリム河下流の何処に位置したか、と言うことが盛んに議論されていた。
 ロプ・ノールとは、タリム盆地のタクラマカン砂漠に、かって存在した塩湖で、後に[さまよえる湖]として知られるようになった著名な湖(みずうみ)のことである。紀元前一世紀頃の漢の時代には、冬も夏も水量が変わらないと、[漢書、西域伝]に記されている広大な湖である。西岸には都市国家楼蘭が栄え、シルクロードの要衝となっていた。しかし、三世紀ころからこの地域一帯の乾燥化が進み、楼蘭は四世紀以降急速に衰退していった。そのため、タクラマカン砂漠の南側を通る天山南路など、楼蘭を経由するルートは往来が不便になり、唐の時代には、ルートの中心が西域南路に移りホータンを通り、カシュガルに出るシルクロードへと移っていった。こうして楼蘭とロプ・ノールは、いつしか流砂の中に消えていき、ついには、何処にあったのかも分からない伝説上の存在となった。
ヘディンは、論争の的となっていた問題を解決しようとして、第二回(一八九九ー一九〇二年)中央アジア探検を計画した。
 大きな探検に踏み出す際には、いつも最後の瞬間まで片付かないことが多いい。ヘディンらが気前よく品物を買い入れると聞いて、雑貨屋、指物師、鍛冶屋などが、近くの村々から押しかけて来る。炊事用具、テント、ベッドと寝袋。十五人が食べる二か月分の食糧と、食器類。しかし、まだ買い集めなければならない物はいっぱいあった。スコップやバケツなど数個は欲しいし、食料にする豚、鶏、水、野菜なども、車一台分は欲しかった。
 トルコ人のイブラヒムは、熟達したカモシカ漁師であった。彼は妻子と舅、姑を故郷へ残してきていたので、給料の前借を申し出たが、ヘディンは喜んで許可した。
 時間が経ち、出発できるようになったときは、もう正午を過ぎていた。村にある門が開かれると、大勢の野次馬の中を、ずっしりと荷を積んだ車が騒音をあげて、埃の中へと走り出した。
 最後の農家の前に何人かの女が見えた。それから先は、叢林も立木もない不毛の砂漠地帯が続くのであるが、まだ道の両側には粘土層の丘があって、その上に乏しい草やタマリスクがまばらに生えていた。
 ロブ湖は何処にあったのか? タリム河の水源は、パミールやカラコルムやチベットの雪原から発して、本流に流れ込んでいるのである。ヘディンが汲んだ、このコップ一杯の水は、タリム盆地を取り囲んでいる山岳地帯、すなわち極奥アジア地域の混合した水と言うことになる。
 タリム河は他のほとんどの河と同様、さまざまな段階において人生に似ている。最初は子供らしく苔や岩の間で、片言を喋っているように流れているが、成長するに従い荒れ狂う強さを発揮し、硬い岩をも打ち砕いて道を切り開いて行く。男盛りには、行く手にある大きな障害を乗り越えて突き進んで行くが、人生の盛りを越してしまうと、人間と同様、穏やかな流れとなって、やがて水量も次第に減少し、今は廃墟となったロプ・ノール湖の底へと消えていくのだ。
 スウェーデンの地理学者、中央アジア探検家であったスヴェン・ヘディンは、一九世紀末から二十世紀初頭にかけてこの一帯を踏査し、一九〇〇年にカラ・コシュンのはるか北方で楼蘭の遺跡を発見した。その北側には、東西方向に延びる干しあがった川底も見つかったことから、ヘディンはタリム河が、この川床を東に向かって流れており、楼蘭の東から南にかけて広がっていたに違いないと考え、これこそがロプ・ノールであると確信した。
 ロプ・ノールは、強い東北東の風による風食で、表土が削られて標高が下がり、やがて高低差が逆転すると、タリム川が再び流れを変えて、ロプ・ノールに戻るはずだと考えた。つまり、この一帯は標高差がわずかしかないため、末端湖や川床に対する推積(すいせき)や侵食の作用によってタリム川の流路が、ある期間を経て大きく変化し、湖の位置が移動するのだということを推測した。
 古代の楼蘭人がロプ湖なしに、自分たちの都を考えられなかったように、二十世紀の学者たちも、その二つを引き離して考えることは出来なかったのである。そしてヘディンが発見した遺跡が楼蘭であるためには、かってそこにロプ・ノールがあったように、いまもそこにロプ湖がなければならなかった。一体ロプ湖は何処へ行ったのであろうか? そして、たとえロプ湖のなれの果てであろうと、兎に角それを見つけたかった。そして、それがいかにして移動したかの秘密が解決されなければならなかった。
 ……帰国後、彼は砂漠と河の変化に応じて、ロプ・ノールはその位置を移動させる。という大胆な推論を導き出し、一九〇五年学会誌に発表した。
 その二四年後、彼はトルハンで、タリム河がコンチェ河を捨てて、クルク河の川床へと流れを変えた。というニュースを耳にし、新しいロブ・ノールをぜひ確かめなければ、という思いに駆られるのである。
 しかしその後、中国の政局は一段と深刻さを増した。中国・スウェーデン探検隊が活躍した時期、蒋介石は北伐に成功し、南京に国民政府を置き、共産党掃討にとりかかっていた。
毛沢東はこれに対抗し、江西省に中華ソビエト臨時政府を起立した。
 一九三七年には、盧溝橋事件に端を発する日中戦争が始まり、日本の中国進行は進んでいた。その翌々年、ドイツのポーランド進撃によって、第二次世界大戦の火ぶたが切られ、全ヨーロッパは動乱のるつぼと化した。


一九二九年、コンチェ・ダリアの流れが東に方向を変えた、というニュースを耳にした。ヘディンがその場所へ来て見ると、以前、彼が歩いた川床に水が流れていたのである。それこそ彼が二四年前に予言した水の移動であった。
 九月、彼はキャラバンを組織し、従者と共に河を下り、他のグループは、岸沿いに進んだ。約三か月後、タリム河が氷結し舟が閉じ込められたため、以後陸行してロブ・ノ―ル調査へと向かった。途中従者の一人が、前のキャンプ地にシャベルを忘れ、取りに行って戻ってくる間に遺跡を発見した。これがヘディンの楼蘭遺跡発見のきっかけであり、またこの遺跡を調査した結果、楼蘭はロブ・ノールが移動し、湖水が消滅したために破棄されたことが明らかとなった。ロブ・ノールとは、移ろい彷徨(さまよ)う湖である。というヘディンの推論がここに成立するのである。

謎の国 楼蘭(一)小河墓遺跡

 二千三年の十二月、中国文物考古学研究所のグループが、タクラマカン砂漠を、西に向かって走っていた。目指すは古い都の廃墟、小河墓遺跡である。発掘隊長は、イディリス・アブドゥラスル。
タクマラカン砂漠での言い伝えでは、遺蹟を荒したり、遺物を持ち去ろうとする者には呪いがかかるという伝説がある。
 千の棺の眠る丘には絶えず黄砂が舞い、日中は灼熱の太陽に曝され、夜になると温度がぐっと下がるという。
タクラマカン砂漠は、強い風と体積がおりなす壮大な気象によって、数々の風紋をうみだしている。中には、鬼が住む奇怪な形(かたち)をした城のようなものもあったり、ときには仏塔によく似た形(かたち)もある。
砂漠には絶えず砂が舞い、風は刻々と風紋の形を変える。天空から降下する砂嵐は、地上に渦をつくり砂丘を変化させる。丘や谷も複雑に入り込んでいて、一度(ひとたび)この死の海に迷い込むと、二度と再び戻ることが出来なくなってしまうと言う。
五世紀の初頭、仏典を求めてインドに旅した法顕は、タクラマカン砂漠の様子を次のように述べている。
「空に飛ぶ鳥なく、地に走る獣もない。見渡す限り砂の海で、標識とするは、ただ死者の枯骨のみである」と、記録している。
……砂漠用の車両が、砂を蹴立てて前進する。目的地は小河(しょうが)墓(ぼ)遺跡。強い風によって出来た複雑な地形を走ること四時間、遺跡に近づくに従って砂が深くなる。車体は高いが、砂が車輪を噛み、タイヤが空回りする。こうなると、全員が降りて砂をかく以外にない。
……「ほら! 遺跡が見える」
 ここには、今から二千年以上前のミイラが、何百体も眠っているという。小河墓遺跡は、高さが七メートル余り、丘陵には胡(こ)楊(よう)の柱が多数立ち並んでいる。近寄って見ると柱は人工的に造られたもので、永い期間風雨に晒されて亀裂が入っている。砂丘の上には、棺材や毛織物が散乱しており、自然破壊だけでなく、人による盗掘も行われていたと推測された。