matsunaeのブログ

親鸞を書きたい。随筆として書いたら良いのか?小説として書いたら良いのか考慮中

謎の国 楼蘭(四)楼蘭の美女

その後、更に三年過ぎた二千四年一月、考古学研究所とNHKが共同して、小河墓の発掘に当った今回(二千四年一月)も、隊長はイディリス・アブドゥラスルであった。中国考古学研究所のメンバーが発掘現場に着き、最初にやらねばならなかったことは、墓地に散乱している棺の破片や、倒れている墓柱の整理であった。散らばった墓柱や胡楊の板切れに交じって、墓の守り神とも思われる人型の板切れも交じっている。隊長イディリスによれば、太古の昔から人間には、宗教心が備わっていて、死者への尊崇から、あの世に旅立つ人の守護神として、設えたのではないかと言っていた。
 丘の上に立つ何百本の墓柱は、胡楊の木で造られていて、赤く塗られた柱は、男性性器を象徴し、黒色のうちわ形のものは女性性器を象徴していると言う。
 楼蘭が歴史の上に登場するのは紀元前二世紀頃からであり、栄えたのは前二世紀頃から四世紀頃であると思われるが、小河墓遺跡はさらにそれより千六百年以上遡る、青銅器時代の遺跡であることが分かってきた。
 掘り進んでいくと、枯れ葉と土が交互に重なり、およそ三、五メートル辺りまで掘り下げたとき、隊員のスコップの先が何かに当たった。さらに掘り進み砂を取り除いて見ると、舟形をした棺が姿を現す。
 棺には牛の皮が巻かれていて、それを剥がすと乾いた血のりの付いた、眩しいほど真新しく見える棺が太陽の光に反射している。
 舟のように見える棺の上部を外すと、フェルトに包まれた頭部が現れ、帽子には、鷹の羽飾りが付いていて、とてもお洒落な感じである。
顔の部分の板を取り除くと、顔に白いクリームでも塗ったような、二十歳前後と思われる美女に対面する。顔に塗られたクリームは、腐敗防止のためなのか、死化粧なのかは分からないが、とにかく美しい。
 眠っているような面(おもて)には微笑さえ浮かべ、眼窩(がんか)は深く窪んでいる。軽く閉じられた目蓋からは、長いまつ毛が伸びて頬に影を落とす。鼻は高く、鼻孔も魅力的で唇は薄い。身には羊の毛で作られたマントをはおり、体の上には植物の枝マオウが載せられている。マオウは麻薬の一種で、中枢神経を麻痺させる効用も果たす。
 足には、牛の皮で作られたブーツを履き、その上を羊のモーフが覆っている。腰のあたりを見ると、草で編んだポシェットが置かれている。なんだろうと思い、手に取って振ってみるとシャキ、シャキと音がする。調べて見ると、中から砂と小枝に交じって小麦の種もみが出て来た。一体これにはどういう意味があるのか? ……イディリスの解説によれば、
「来世に旅立つ人の、生活の料として持たしたのだろう」と言う。
 ポシェットの種もみから類推すれば、当時の楼蘭は、ロプ・ノールのほとりに面して、黄金色に輝く麦畑が広がっていたに違いない。
 後に彼女のDNAを調べると、ヨーロッパ人の血が、七〇パーセントぐらい入っているアーリア系人種であることが判明した。
 発掘後、上海で防腐剤処理をしたために、肌が一気に黒ずんでしまったが、以前はその美しさに世界中が驚愕したと言う。
 ところで、アーリア系民族がロプ・ノールの辺(ほとり)、楼蘭に住むようになったのはいかなる事情によるものか? ……。
 発掘された美女のDNAを調べた結果、およそ三千八百年前のミイラだということが分かった。だとすると、楼蘭人は三千八百年以前からこの地に定住していたことになる。頭に被ったフェルトの帽子、羊の毛で織られたマント、足には牛の皮で作られたブーツを履いていた。
 毛皮を鞣(なめ)したり、フェルトを作る技術を習得し、灌漑農業を取り入れて麦を栽培するなど、当時としては、かなり進んだ社会だったことを想像させる。
 畑には小麦が実り、黄金色の世界を出現していただろうし、牧畜も盛んだったようだ。当時は現在の環境とは違い、近くにはロブ・ノールも存在していたし、胡楊の林もあった。空には飛ぶ鳥も多く湖には魚もいた。
 ……楼蘭と呼ばれる都市、またはその名を持つ国家が、いつどのようにして成立したのかは定かには分からない。古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されており、いわゆる[楼蘭の美女]として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代の測定によって、紀元前千八百年頃の人物であると推定されている。しかし、文献史料に楼蘭の名が現れるのは[史記]匈奴(きょうど)列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初であり、その間の歴史は空白である。その手紙は匈奴の君主が、前漢の文帝に宛てて送ったもので、この中で匈奴は大月氏に対して勝利し、楼蘭及び近隣の国二六カ国を平定したと宣言している。この手紙は、紀元前一七六年に送られたものであるため、楼蘭は少なくとも紀元前一七六年以前に形成され、それ以前の楼蘭は大月氏の勢力圏にあったこと、そして紀元前二世紀頃匈奴の支配下に入ったことが推定される。[漢書]西域伝によれば、西域をことごとく支配下に入れた匈奴は楼蘭を含む西域諸国に賦税し、河西回廊に数万の軍勢を置いてその交易を支配した。
 その後、漢は衛青の指揮で大規模な対匈奴の軍事行動をおこした。彼は漠北の匈奴の本拠地を攻撃して大きな戦果をあげた。この後漢は本格的に西域経営に乗り出した。
 こうして西域の交通路を抑えた漢は、西域諸国や西方へと遺使や隊商を数多く派遣するようになった。しかし、大挙増大した漢の人々と西域諸国との間ではトラブルが頻発した。
 これまで匈奴と接近して来た楼蘭は、漢の進出を嫌い匈奴と接近して漢使の往来を妨害するなどの挙に出た。これを憂慮した漢の武帝は、数万人を動員して楼蘭に軍事介入を行った。騎兵七百騎と共に、先行した漢の攻撃を受けて楼蘭は占拠され、国王が捕らえられた。そして漢の要求により、王子の一人を人質として差し出し漢に服属した。
 匈奴にとって西域の要衝、楼蘭の服属は座視できない事件であった。間もなく匈奴も楼蘭を攻撃したので、楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り貢納を収めた。こうした漢と匈奴の西域を巡る争いは長く続き、楼蘭の政治はその動きに激しく左右された。
 楼蘭の遺跡が探検家スヴェン・ヘディンやオーレル・スタインらの活動によって発見され、発掘調査が行われるようになった後、同地から発見された文書の分析によって、スタインがLAと名付けた都市遺跡が、楼蘭の王城であるという説は現在でも有力視されている。しかし、LA遺跡は三世紀頃に形成された都市であり、いくら少なく見積もっても、西暦前一千八百年頃の楼蘭とは同一ではない事は確かである。
 ロプ・ノール地域に周期的に起こる変化は、動物界や植物界に真の破局を敷き起こす。河が不意に涸れはじめ、完全に干しあがってしまっても、動物は他の地域へ逃れることはできても、植物は死を免れることはできない。砂漠に水のない所では、死の静寂がみなぎり葦は涸れ、魚や貝類などは窒息して死んでしまうのである。
 ……砂に埋もれていた千六百年間、楼蘭はロプ・ノールと共に所在をくらまし、それが何処にあるのか判らなかったが今、中国文物考古学研究所の発掘により、姿を現したのである。