謎の国 楼蘭(二)ロブ湖の存在
一八九七年頃、世界の地理学会では、ロプ・ノールがタリム河下流の何処に位置したか、と言うことが盛んに議論されていた。
ロプ・ノールとは、タリム盆地のタクラマカン砂漠に、かって存在した塩湖で、後に[さまよえる湖]として知られるようになった著名な湖(みずうみ)のことである。紀元前一世紀頃の漢の時代には、冬も夏も水量が変わらないと、[漢書、西域伝]に記されている広大な湖である。西岸には都市国家楼蘭が栄え、シルクロードの要衝となっていた。しかし、三世紀ころからこの地域一帯の乾燥化が進み、楼蘭は四世紀以降急速に衰退していった。そのため、タクラマカン砂漠の南側を通る天山南路など、楼蘭を経由するルートは往来が不便になり、唐の時代には、ルートの中心が西域南路に移りホータンを通り、カシュガルに出るシルクロードへと移っていった。こうして楼蘭とロプ・ノールは、いつしか流砂の中に消えていき、ついには、何処にあったのかも分からない伝説上の存在となった。
ヘディンは、論争の的となっていた問題を解決しようとして、第二回(一八九九ー一九〇二年)中央アジア探検を計画した。
大きな探検に踏み出す際には、いつも最後の瞬間まで片付かないことが多いい。ヘディンらが気前よく品物を買い入れると聞いて、雑貨屋、指物師、鍛冶屋などが、近くの村々から押しかけて来る。炊事用具、テント、ベッドと寝袋。十五人が食べる二か月分の食糧と、食器類。しかし、まだ買い集めなければならない物はいっぱいあった。スコップやバケツなど数個は欲しいし、食料にする豚、鶏、水、野菜なども、車一台分は欲しかった。
トルコ人のイブラヒムは、熟達したカモシカ漁師であった。彼は妻子と舅、姑を故郷へ残してきていたので、給料の前借を申し出たが、ヘディンは喜んで許可した。
時間が経ち、出発できるようになったときは、もう正午を過ぎていた。村にある門が開かれると、大勢の野次馬の中を、ずっしりと荷を積んだ車が騒音をあげて、埃の中へと走り出した。
最後の農家の前に何人かの女が見えた。それから先は、叢林も立木もない不毛の砂漠地帯が続くのであるが、まだ道の両側には粘土層の丘があって、その上に乏しい草やタマリスクがまばらに生えていた。
ロブ湖は何処にあったのか? タリム河の水源は、パミールやカラコルムやチベットの雪原から発して、本流に流れ込んでいるのである。ヘディンが汲んだ、このコップ一杯の水は、タリム盆地を取り囲んでいる山岳地帯、すなわち極奥アジア地域の混合した水と言うことになる。
タリム河は他のほとんどの河と同様、さまざまな段階において人生に似ている。最初は子供らしく苔や岩の間で、片言を喋っているように流れているが、成長するに従い荒れ狂う強さを発揮し、硬い岩をも打ち砕いて道を切り開いて行く。男盛りには、行く手にある大きな障害を乗り越えて突き進んで行くが、人生の盛りを越してしまうと、人間と同様、穏やかな流れとなって、やがて水量も次第に減少し、今は廃墟となったロプ・ノール湖の底へと消えていくのだ。
スウェーデンの地理学者、中央アジア探検家であったスヴェン・ヘディンは、一九世紀末から二十世紀初頭にかけてこの一帯を踏査し、一九〇〇年にカラ・コシュンのはるか北方で楼蘭の遺跡を発見した。その北側には、東西方向に延びる干しあがった川底も見つかったことから、ヘディンはタリム河が、この川床を東に向かって流れており、楼蘭の東から南にかけて広がっていたに違いないと考え、これこそがロプ・ノールであると確信した。
ロプ・ノールは、強い東北東の風による風食で、表土が削られて標高が下がり、やがて高低差が逆転すると、タリム川が再び流れを変えて、ロプ・ノールに戻るはずだと考えた。つまり、この一帯は標高差がわずかしかないため、末端湖や川床に対する推積(すいせき)や侵食の作用によってタリム川の流路が、ある期間を経て大きく変化し、湖の位置が移動するのだということを推測した。
古代の楼蘭人がロプ湖なしに、自分たちの都を考えられなかったように、二十世紀の学者たちも、その二つを引き離して考えることは出来なかったのである。そしてヘディンが発見した遺跡が楼蘭であるためには、かってそこにロプ・ノールがあったように、いまもそこにロプ湖がなければならなかった。一体ロプ湖は何処へ行ったのであろうか? そして、たとえロプ湖のなれの果てであろうと、兎に角それを見つけたかった。そして、それがいかにして移動したかの秘密が解決されなければならなかった。
……帰国後、彼は砂漠と河の変化に応じて、ロプ・ノールはその位置を移動させる。という大胆な推論を導き出し、一九〇五年学会誌に発表した。
その二四年後、彼はトルハンで、タリム河がコンチェ河を捨てて、クルク河の川床へと流れを変えた。というニュースを耳にし、新しいロブ・ノールをぜひ確かめなければ、という思いに駆られるのである。
しかしその後、中国の政局は一段と深刻さを増した。中国・スウェーデン探検隊が活躍した時期、蒋介石は北伐に成功し、南京に国民政府を置き、共産党掃討にとりかかっていた。
毛沢東はこれに対抗し、江西省に中華ソビエト臨時政府を起立した。
一九三七年には、盧溝橋事件に端を発する日中戦争が始まり、日本の中国進行は進んでいた。その翌々年、ドイツのポーランド進撃によって、第二次世界大戦の火ぶたが切られ、全ヨーロッパは動乱のるつぼと化した。
一九二九年、コンチェ・ダリアの流れが東に方向を変えた、というニュースを耳にした。ヘディンがその場所へ来て見ると、以前、彼が歩いた川床に水が流れていたのである。それこそ彼が二四年前に予言した水の移動であった。
九月、彼はキャラバンを組織し、従者と共に河を下り、他のグループは、岸沿いに進んだ。約三か月後、タリム河が氷結し舟が閉じ込められたため、以後陸行してロブ・ノ―ル調査へと向かった。途中従者の一人が、前のキャンプ地にシャベルを忘れ、取りに行って戻ってくる間に遺跡を発見した。これがヘディンの楼蘭遺跡発見のきっかけであり、またこの遺跡を調査した結果、楼蘭はロブ・ノールが移動し、湖水が消滅したために破棄されたことが明らかとなった。ロブ・ノールとは、移ろい彷徨(さまよ)う湖である。というヘディンの推論がここに成立するのである。
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