matsunaeのブログ

親鸞を書きたい。随筆として書いたら良いのか?小説として書いたら良いのか考慮中

謎の国 楼蘭(六)東に向かって



 旅立ちの朝、人々は「お母さん、お母さん」と呼び続ける子供を叱りながら手を引っ張った。子供たちは、故郷を離れるときも、遠い旅をするときも、母と一緒だと思っていたのに、今はからずも引き分けられて、悲しさばかりが胸に溢れてくる様子だった。
 総勢で一千名を上回る人数である。旅立ちの日までに、町で手に入れることのできる食料品、小麦粉、卵などを買い入れ、それぞれを分類し、振り分けにしてロバの背に乗せている。羊を連れて行く者もいれば、鶏を籠に入れてロバの背に乗せていく者もいる。
隊列が整えばリーダーも決めなければならない。ぐずぐずしてはいられない、取りあえず私(セルジュ)が隊長に任じられた。皆は、食料、宿営用具。その他金塊など、旅の途中食料と交換できる金目の物をなるべく多く積み込んだ。一応隊を百名づつに分け、各グループ毎にリーダーを就ける。
 朝の光が川筋から湿気をあぶり出している。街道に水が溢れている所が何か所かあった。大多数の人間が平和な土地を探しているとき、灌漑用水のことなど気に掛ける人などいない。しばらく歩いて、みすぼらしい木の橋を渡って、河の岸辺に到着した。ここで小休止する。ロバたちは、足元を水に浸けながら、十分な水を腹いっぱい飲んだ。子供たちは燥(はしゃ)ぎ、女たちは髪の手入れをする。
日が暮れるころ、わずかなトルコ人家族が住んでいるだけの部落に着いた。農家の長老はトルコ語で、何でも用立てましょうと申し出た。我々が避難民であることが分かって、必要なものがあったら用立てましょうと言う。
 我々は空き家が多い、この部落でキャンプする事にした。この土地が戦いに巻き込まれていることは、はっきりしていた。それでも翌朝になると、わずかな小麦粉、米、卵などを調達し持たせてくれた。
 空は曇り、太陽が霧のヴェールに覆われている。一行は橋を渡り、北東の方角に向かい村を通り抜けた。黒豚が溝のなかを掘り返し犬が吠えていた。
セルジュの目的は東方にあった。争いのない土地を皆に与えてやりたかった。噂によれば、北の緑と南の緑に沿ってオアシスが点在するという。水が湧きポプラの木陰があり、熱射を癒していると言う。
 太陽は沈みつつあったが、熱暑はまだ収まる気配もない。少年が私たちを見つめていた。
十歳前後かと思われる。顔は汚れていて、頬や口の周りは白い粉が吹いているように見える。目はぱっちりと開いて、その容貌はどこかモンゴロイドのようにも見える。人なつこいのか、近づいて来ると少年の体からは枯草の匂いがしてきた。
 裸足の少年は、焼けた土の上へ足を踏み出して、果てしなく長い隊列に見入っている。最近セルジュの心に、子供に親しみを持つ。という気持ちが、いつのまにか芽生えていた。それは本質的な自分の姿へ回帰しようとする試みであるのかも知れない。三十八歳の彼は少年の眼差しに、在りし日の自分を重ねるのだった。
 先ほどから隊列の脇を流れている黄土色の川が、セルジュにはひどく汚れたものに見えていた。彼は隊列を止めて小休止を命じた。そして、隊列を巡視するため、後方に移動してリーダー達の意見を聞いて廻った。最後の隊列の中ほどに差し掛かかると、若い女性が川の浅瀬で少年の足を洗っていた。少年は体を小さくさせて、大袈裟に身を捩(よじ)っていた。
 二日歩いてようやく川沿いの道から離れた。キャラバンはその後、四日歩いて全く不案内な、荒涼たる土地へ踏み入った。季節は冬を迎え家畜は次々に倒れ、一行は極度に緊迫した状態に陥った。そんなとき図らずも小規模なロバのキャラバンに出会った。キャラバンは涸れた樹木を、薪として町に売りに行くのだ。セルジュは、老夫に道を問うた。
「ここから町までは、どれほどの距離を行けば着けますか?」
「一日でいけるでしょう。イランのテヘランという町です」
そう言うと、老夫は黄色い土埃が舞う道をロバの背に揺られて遠ざかって行った。
 旅立ちの日から何か月経過したろうか、病人も出たし死者も出た。女たちは病人のために尽力し、自分の食糧を割いて、卵焼きを作って食べさせもした。セルジュは、なんとしても、これらの人々が安心して住める土地を探すことを心に誓った。
誰もが、目的地が決まっていない旅に不安を感じるのは当然のことだ。人間、創意の時もあれば失意のときもある。イランと中央アジアを結ぶ平原を目の前にして、地面が少し堅くなったところを選んで野営することにした。四方八方、薄い灰色の大気が広がり夕日も霞んでいた。北の空には、山の尾根が黒色の輪郭を描き、静まりかえっている。
 ここには、人も住んでいなければ路もない。すべては沈黙していて、息も詰まらんばかりであった。そのなかでの唯一の救いは、子供が発するやかましい声であった。誰もかれもが憔悴したなかで、子供たちだけの表情は明るい。
 翌日、烈しい北西風が吹き、短いが強い驟雨が降って、丘の近くに浅い湖ができた。けれども一日たって蒸発してしまうと、黄色の泥水が一面に広がっていた。その中を四、五人のリーダーに連れられた二十名ほどの若者たちが、足元を気遣いながら降りていった。
半日近く掛かる村に食料を求めに行ったのだ。彼らは河を渡って羊飼いに合い、数十頭の羊を買い入れて来た。あくる日も、別の隊員たちが部落まで出向き、小麦粉、米、卵、などを調達してきたが、その度に隊員たちの家宝、螺鈿の花瓶やガラスの器などが消えていくのだった。
 あくる日から三、四日をかけて、トルクメニスタンからタジキスタンを過ぎ、タリム盆地にはいる。褐色の日差しが、疲れ切った隊員の背に落ちて、仮死寸前の背中を思わせる。
橋のたもとの小道から、馬と一緒に老人が降りて来た。そして馬に水を飲ませた。馬に覇気はなく毛艶もない。老人も疲弊の塊のように見えた。それを見ていたセルジュは、老人と馬が水を得て甦れば、疲れ切った隊員の勢いも甦るような気がした。これまでに亡くなった隊員も大勢いた。棺に入れてやることもならず、ただ、その人がいつも大事にしていた織物を体に巻いて埋葬してやるだけである。
タクラマカン砂漠周辺の道は、オアシスとオアシスを結んだ線であるが、自然の条件が変わることによってオアシスが移動し、それを結ぶ道も当然移動する。
 ……林の道も、ときどきタクマラカン砂漠からくる、竜巻が樹木の少ない砂地の中を横切って行く。何日か歩いた後、林は全くの砂漠に変わる。一望眼を遮るものもない砂の海である。所によっては、小規模なオアシスはあったが、そこにはすでに先住民が暮らしていて、千名近い新たな住民などが住み着く余地はない。人々はタリム河の支流に沿って、何日も歩かなければならなかった。
タリム河の支流は徐々に消えて、本流だけが東に延びた地点、天山山脈の眺望を後ろに感じながら、ウイグル族が住む田舎町へ着いた。この町の背後には岸壁が連なっていて、見る者を圧倒している。崖は渦を巻く黄砂にときどき隠れたが、強い風が吹くなか遠方からジグザクの道を一人の男が近寄って来た。そして、何処へ行くのかと尋ねる。
「見ての通り、戦果を逃れてここまで来たが、何処まで行ったら安住の地が見つかるか、悩んでいるところです」
「それは大変だ」
「どこかに、我々が暮らせるような処はありませんか?」
「うむ……なくはないが、あまりにも遠いのでね」
「遠くてもかまいません、何しろ千人近い人数の大部隊なので」
「場所はロブ・ノールの辺(ほとり)になるのですが、そこは湖の南、タクラマカン砂漠の真っただ中にあるオアシスです七日は掛かるでしょう」
「かまいません」
「じゃあー、案内人を呼びましょうか、陳という漢族の男ですが?」
「けっこうです。それから、長い旅のためで皆つかれています。しばらくここで疲れを癒し、目的地へ向かいたいと思います。」
「あちらに見える丘があります、あそこなら問題はないでしょう。一応町長に話しておきます」
「これからは、過酷な旅になると思います。食料の手配もお願いしたいのですが」
「心得ています。それも町長に話しておきましょう」半月という約束をして、男は帰って行った。
 未知の土地に旅して、しかも本拠地がなかなか見つからない場合、大事なものと言えば、それは忍耐である。耐え忍ぶことがなければすべてが無に帰してしまう。この大部隊で、水も道もない砂漠の中を、七日間も歩かねばならぬことは危険な企てであった。中には負担に耐えかねて命を落とす者もいるだろう。しかし目的を果たすためには、命をかけてもやり遂げねばならない。
 朝、本格的な北東風で目を覚ました。丘の東端にあるヤルダンの風下に、たくさんの白い鳥たちが群れて、さかんに鳴き声をたてていた。ここまで来た我々の過去はドラマチックに富んでいた。これまでも、起こりそうもない出会いに事欠かなかった。
 突然誰かが叫んだ。「昨日の男がやって来る!」
 なるほど彼方から二人の男が、急ぎ足で近づいてくる。男は着くなり陳を紹介した。双方から質問と答えがほとばしった。
 陳は言った。「砂漠を行くにはラクダが必要だ。聞けば千名近い人数とか、それに見合ったラクダは、とても手配はできない」
「何頭ぐらい集められますか?」
「五十頭も難しい」
「せめて、百頭ほど集められませんか?」
「無理です」
「そこを何とか」
「そう言われても……、努力してみますが、四、五日待ってください。近隣の集落に声を掛けてみます。それに、それほどのラクダを操るには、四、五名のラクダ使いが必要になります」
「構いません、私たちはどうしても行かねばならないのです」
「わかりました、ラクダの手配ができたら連絡に来ます」そう言って陳と男は帰って行った。
 陳が来たのは、それから六日ほどたった朝であった。
「努力をしてみたのですが、集まったのは結局ラクダ六十頭にラクダ使い三人です。これ以上は無理です」
「ありがとうございました。仕方がありません」
「出発はいつになりますか? 決まっていれば、その日にラクダとラクダ使いを用意します」
「出発予定日は、九日後の朝になります」
「では、その日に来ます」
 難民の数が八百名。その他、案内人一名とラクダ使い三名。総数は八百名以上になるが、陳によれば案内人が一名、ラクダ使いも二名ほど不足していると言う。しかし、人員はこれ以上手配できないので、仕方がないと愚痴をこぼす。
当日、陳に案内されたのは、タリム河の支流の川岸であった。
「ラクダには充分水を飲ませたし、皮袋に入れた水も積みました」着くとラクダ使いが陳に言っていた。
 出発は午前中と決められていたが、着いたばかりのロバにも、水を飲ませなければならないし、水をロバの背に積まなければならない。ロバも、今以上の荷を積まれることには相当に抵抗する。せっかく荷を積み終えても、荷物を振り落としてしまうロバもある。
 この地域でも、よく訓練されたラクダは数が少ない。今回の六十頭のラクダも、訓練されたラクダばかりとは限らない。しかも三つの集落からの寄せ集めで、統制をとるのに手間取るのも仕方がないことであった。
 ラクダは灼熱の砂漠で、飲まず食わずに五日も歩けるというから凄い。ラクダの瞼は二重になっていて、しかもまつ毛がびっしり生えている。耳の中にも長い毛が生えていて、砂の侵入を防いでいる。しかも鼻孔は開閉自由。

謎の国 楼蘭(五)アーリア人の旅



 地上から姿を消してしまった砂漠の国[楼蘭]には、いかなる人々が暮らしていたのか?
現在の西域地方は、大部分が中国の新疆(しんきょう)に包含されているが、当時は中国の西北部に当たる大砂漠地帯で、いわゆる異民族の住む異域であった。
 楼蘭を制する者は、シルクロードを制する。とまで言われていた時代、漢と匈奴の争いを克服したのは、漢の武帝(紀元前一八〇年頃の人物)であった。
 武帝の頃までは、この地域には湖もあり、緑も豊かであった。が、四世紀頃には、ロプ・ノールの水が徐々に引き、砂漠化が始まったのである。その頃になるとこの砂漠へ足を踏み入れる無謀者はなかった。
[タクマラカン]ウイグル語だそうだ。「入ると出られない」という意味である。タクマラカンは、ただの砂漠ではない。砂河には砂の嵐や熱風が吹き、皆死に絶え一人も命を全うする者など居ない。「空に飛ぶ鳥なく地には走る獣なし」見渡す限り砂丘ばかりである。法顕はインドへ法を求めて旅に出たが、砂漠では、「死者の枯骨を道(みち)導(しるべ)にした」と述べている。
 タクマラカン砂漠は、東西に一二○○キロ、南北は五○○キロ、その面積は実に五二万平方キロ、日本国土の約二倍近くに相当する。しかも砂漠には五○度の気温が続き、夜は○度まで下がる過酷な自然環境にある。しかもこの灼熱地獄とも言える環境に加え、激しい砂嵐が吹き荒れ、生物をまったく寄せ付けない世界である。
 砂嵐の到来は、ラクダのみがそれを予知することができる。砂嵐を察知したラクダは口、鼻を砂の中に埋めて、嵐が通り過ぎるのを待つのである。この時、口、鼻を防ぐ物がない者は必ず倒れてしまう。
 人々は、この砂漠のことを死の海と称し「いったん足を踏み入れたら、二度と帰ることはきないところ」と言って近づくことすら恐れていたのである。七世紀の頃、この地を旅した僧、玄奘は「城郭あれど人煙なし」と語り、もはや楼蘭が、住む人のない廃墟になってしまっていることを書き記している。
 楼蘭は砂の中に埋もれてしまったが、前二十世紀頃のこの地域には、湖もあったし、植物も豊富であったに違いない。
 発掘されたミイラ(楼蘭の美女)が、前一八世紀頃の人物だとすると、一体この人たちはどこからやって来たのだろう。コーカソイド(白人系)だということを考慮し、しかも美女のポシェットに小麦の種、などを考えると、灌漑農業が盛んで、麦による農耕を富の基盤として生活していた人種、シリア辺りを想像せずにはいられない。
 シリアと言っても、オリエント時代には、メソポタミア、アッシリア、バビロニアと、支配者がめまぐるしく変わってきた歴史があり、どの時代の人々が楼蘭へ移住して来たかは定かではない。
その人々はシリアのどの辺りに住んでいたかは分からないが、二一世紀の現代でも、難民が続出しているシリアの現状から類推しても、戦乱の惨状を推し量ることは出来る。とにかくその時代、人々の苦しみは想像を絶する有様であったに違いない。町ぐるみの話し合いが何度も開かれた筈だ。
「来る日も来る日も、人が殺されている。この状況を脱するには、この土地を逃れて何処かへ避難する他ないと思うが?」
「年寄りや、体の悪い者はどうする!」
「…………」
「とにかく、この町に置いて行くわけにもいくまい」
「私は八〇才になるが、遠方までは歩けない。老人や病人は置いて行け! 我々の子孫を絶やしてはならない」
「そうは言っても、……」
「わたしも、大好きな父を置いては行けないわ」
 話し合いの結果、約半数の人々が残ることになった。ある老人がいる家の娘は、子供だけを知り合いに頼み、自分は残る決心をした。

謎の国 楼蘭(四)楼蘭の美女

その後、更に三年過ぎた二千四年一月、考古学研究所とNHKが共同して、小河墓の発掘に当った今回(二千四年一月)も、隊長はイディリス・アブドゥラスルであった。中国考古学研究所のメンバーが発掘現場に着き、最初にやらねばならなかったことは、墓地に散乱している棺の破片や、倒れている墓柱の整理であった。散らばった墓柱や胡楊の板切れに交じって、墓の守り神とも思われる人型の板切れも交じっている。隊長イディリスによれば、太古の昔から人間には、宗教心が備わっていて、死者への尊崇から、あの世に旅立つ人の守護神として、設えたのではないかと言っていた。
 丘の上に立つ何百本の墓柱は、胡楊の木で造られていて、赤く塗られた柱は、男性性器を象徴し、黒色のうちわ形のものは女性性器を象徴していると言う。
 楼蘭が歴史の上に登場するのは紀元前二世紀頃からであり、栄えたのは前二世紀頃から四世紀頃であると思われるが、小河墓遺跡はさらにそれより千六百年以上遡る、青銅器時代の遺跡であることが分かってきた。
 掘り進んでいくと、枯れ葉と土が交互に重なり、およそ三、五メートル辺りまで掘り下げたとき、隊員のスコップの先が何かに当たった。さらに掘り進み砂を取り除いて見ると、舟形をした棺が姿を現す。
 棺には牛の皮が巻かれていて、それを剥がすと乾いた血のりの付いた、眩しいほど真新しく見える棺が太陽の光に反射している。
 舟のように見える棺の上部を外すと、フェルトに包まれた頭部が現れ、帽子には、鷹の羽飾りが付いていて、とてもお洒落な感じである。
顔の部分の板を取り除くと、顔に白いクリームでも塗ったような、二十歳前後と思われる美女に対面する。顔に塗られたクリームは、腐敗防止のためなのか、死化粧なのかは分からないが、とにかく美しい。
 眠っているような面(おもて)には微笑さえ浮かべ、眼窩(がんか)は深く窪んでいる。軽く閉じられた目蓋からは、長いまつ毛が伸びて頬に影を落とす。鼻は高く、鼻孔も魅力的で唇は薄い。身には羊の毛で作られたマントをはおり、体の上には植物の枝マオウが載せられている。マオウは麻薬の一種で、中枢神経を麻痺させる効用も果たす。
 足には、牛の皮で作られたブーツを履き、その上を羊のモーフが覆っている。腰のあたりを見ると、草で編んだポシェットが置かれている。なんだろうと思い、手に取って振ってみるとシャキ、シャキと音がする。調べて見ると、中から砂と小枝に交じって小麦の種もみが出て来た。一体これにはどういう意味があるのか? ……イディリスの解説によれば、
「来世に旅立つ人の、生活の料として持たしたのだろう」と言う。
 ポシェットの種もみから類推すれば、当時の楼蘭は、ロプ・ノールのほとりに面して、黄金色に輝く麦畑が広がっていたに違いない。
 後に彼女のDNAを調べると、ヨーロッパ人の血が、七〇パーセントぐらい入っているアーリア系人種であることが判明した。
 発掘後、上海で防腐剤処理をしたために、肌が一気に黒ずんでしまったが、以前はその美しさに世界中が驚愕したと言う。
 ところで、アーリア系民族がロプ・ノールの辺(ほとり)、楼蘭に住むようになったのはいかなる事情によるものか? ……。
 発掘された美女のDNAを調べた結果、およそ三千八百年前のミイラだということが分かった。だとすると、楼蘭人は三千八百年以前からこの地に定住していたことになる。頭に被ったフェルトの帽子、羊の毛で織られたマント、足には牛の皮で作られたブーツを履いていた。
 毛皮を鞣(なめ)したり、フェルトを作る技術を習得し、灌漑農業を取り入れて麦を栽培するなど、当時としては、かなり進んだ社会だったことを想像させる。
 畑には小麦が実り、黄金色の世界を出現していただろうし、牧畜も盛んだったようだ。当時は現在の環境とは違い、近くにはロブ・ノールも存在していたし、胡楊の林もあった。空には飛ぶ鳥も多く湖には魚もいた。
 ……楼蘭と呼ばれる都市、またはその名を持つ国家が、いつどのようにして成立したのかは定かには分からない。古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されており、いわゆる[楼蘭の美女]として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代の測定によって、紀元前千八百年頃の人物であると推定されている。しかし、文献史料に楼蘭の名が現れるのは[史記]匈奴(きょうど)列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初であり、その間の歴史は空白である。その手紙は匈奴の君主が、前漢の文帝に宛てて送ったもので、この中で匈奴は大月氏に対して勝利し、楼蘭及び近隣の国二六カ国を平定したと宣言している。この手紙は、紀元前一七六年に送られたものであるため、楼蘭は少なくとも紀元前一七六年以前に形成され、それ以前の楼蘭は大月氏の勢力圏にあったこと、そして紀元前二世紀頃匈奴の支配下に入ったことが推定される。[漢書]西域伝によれば、西域をことごとく支配下に入れた匈奴は楼蘭を含む西域諸国に賦税し、河西回廊に数万の軍勢を置いてその交易を支配した。
 その後、漢は衛青の指揮で大規模な対匈奴の軍事行動をおこした。彼は漠北の匈奴の本拠地を攻撃して大きな戦果をあげた。この後漢は本格的に西域経営に乗り出した。
 こうして西域の交通路を抑えた漢は、西域諸国や西方へと遺使や隊商を数多く派遣するようになった。しかし、大挙増大した漢の人々と西域諸国との間ではトラブルが頻発した。
 これまで匈奴と接近して来た楼蘭は、漢の進出を嫌い匈奴と接近して漢使の往来を妨害するなどの挙に出た。これを憂慮した漢の武帝は、数万人を動員して楼蘭に軍事介入を行った。騎兵七百騎と共に、先行した漢の攻撃を受けて楼蘭は占拠され、国王が捕らえられた。そして漢の要求により、王子の一人を人質として差し出し漢に服属した。
 匈奴にとって西域の要衝、楼蘭の服属は座視できない事件であった。間もなく匈奴も楼蘭を攻撃したので、楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り貢納を収めた。こうした漢と匈奴の西域を巡る争いは長く続き、楼蘭の政治はその動きに激しく左右された。
 楼蘭の遺跡が探検家スヴェン・ヘディンやオーレル・スタインらの活動によって発見され、発掘調査が行われるようになった後、同地から発見された文書の分析によって、スタインがLAと名付けた都市遺跡が、楼蘭の王城であるという説は現在でも有力視されている。しかし、LA遺跡は三世紀頃に形成された都市であり、いくら少なく見積もっても、西暦前一千八百年頃の楼蘭とは同一ではない事は確かである。
 ロプ・ノール地域に周期的に起こる変化は、動物界や植物界に真の破局を敷き起こす。河が不意に涸れはじめ、完全に干しあがってしまっても、動物は他の地域へ逃れることはできても、植物は死を免れることはできない。砂漠に水のない所では、死の静寂がみなぎり葦は涸れ、魚や貝類などは窒息して死んでしまうのである。
 ……砂に埋もれていた千六百年間、楼蘭はロプ・ノールと共に所在をくらまし、それが何処にあるのか判らなかったが今、中国文物考古学研究所の発掘により、姿を現したのである。