matsunaeのブログ

親鸞を書きたい。随筆として書いたら良いのか?小説として書いたら良いのか考慮中

謎の国 楼蘭 序文

       序
 スヴェン・ヘディンは、一八九九年二月、第二回中央アジア探検に出発した。途中、召使の一人エルデクが、前のキャンプ地にシャベルを忘れ、取りに行って戻ってくる間に遺跡を発見した。これがヘディンの楼蘭遺跡発見のきっかけであった。
 一九二七年ヘディンは、四回目になる大々的な西域探検を行った。ヘディンが掘り出した棺が、古代の楼蘭人女性のものであることは疑いない。
 遺体は頭のてっぺんから足の先まで、完全に覆いかくされていた、うら若い年頃の女性は、後世の子孫たちが彼女の眠りを覚ますまで、二〇〇〇年の間まどろみ続けることになったのである。しかし私は、学者たちの言う公(おおやけ)の歴史といえども信じない。
 文献史料に楼蘭の名が現れるのは[史記]匈奴列伝に集録された、匈奴の君主である冒頓単宇が、前漢の文帝に宛てて送ったものである。その手紙(紀元前二世紀)が最初であり、それ以前の歴史は空白である。
 この手紙は文帝四年(紀元前一七六年)に送られたものである。この頃には、すでに楼蘭は匈奴の支配下に入ったことが推定される。[漢書] 西域伝によれば、西域をことごとく支配下に入れた匈奴は、楼蘭を含む西域諸国に苛税し、河西回廊に数万の軍勢を置いてその交易  を支配した。
 漢は前一二七年、大規模な対匈奴に対する軍事行動を起こし、漠北の匈奴本拠地を攻撃して大きな戦果を上げた。
 楼蘭が漢から使者を受けたのは、彼らが初めて漢の部隊を目撃してから二年目の秋であった。使者の趣は、玉門・陽関を出て西域に入る漢人のために、楼蘭国は適当な人数を出して、砂漠の途中まで食料と水の補給をするようにという一方的な命令であった。
 楼蘭はこのため殆ど毎日のように多数の男たちを、砂漠の中へ送り込まなければならなかった。重い食料と水を担って、砂漠の途中まで漢人を出迎えることは大変な仕事であった。
 匈奴の横暴にも多年苦しめられてきたが、漢の大国としての武力をかさに着た命令も楼蘭人たちにとって耐えがたいものであった。
 しかし科学の進歩は著しく、二○○三年には、中国文物考古学研究所が、NHKの協力を得て、楼蘭にある小河墓遺跡の発掘を行うことになる。