matsunaeのブログ

親鸞を書きたい。随筆として書いたら良いのか?小説として書いたら良いのか考慮中

謎の国 楼蘭(五)アーリア人の旅



 地上から姿を消してしまった砂漠の国[楼蘭]には、いかなる人々が暮らしていたのか?
現在の西域地方は、大部分が中国の新疆(しんきょう)に包含されているが、当時は中国の西北部に当たる大砂漠地帯で、いわゆる異民族の住む異域であった。
 楼蘭を制する者は、シルクロードを制する。とまで言われていた時代、漢と匈奴の争いを克服したのは、漢の武帝(紀元前一八〇年頃の人物)であった。
 武帝の頃までは、この地域には湖もあり、緑も豊かであった。が、四世紀頃には、ロプ・ノールの水が徐々に引き、砂漠化が始まったのである。その頃になるとこの砂漠へ足を踏み入れる無謀者はなかった。
[タクマラカン]ウイグル語だそうだ。「入ると出られない」という意味である。タクマラカンは、ただの砂漠ではない。砂河には砂の嵐や熱風が吹き、皆死に絶え一人も命を全うする者など居ない。「空に飛ぶ鳥なく地には走る獣なし」見渡す限り砂丘ばかりである。法顕はインドへ法を求めて旅に出たが、砂漠では、「死者の枯骨を道(みち)導(しるべ)にした」と述べている。
 タクマラカン砂漠は、東西に一二○○キロ、南北は五○○キロ、その面積は実に五二万平方キロ、日本国土の約二倍近くに相当する。しかも砂漠には五○度の気温が続き、夜は○度まで下がる過酷な自然環境にある。しかもこの灼熱地獄とも言える環境に加え、激しい砂嵐が吹き荒れ、生物をまったく寄せ付けない世界である。
 砂嵐の到来は、ラクダのみがそれを予知することができる。砂嵐を察知したラクダは口、鼻を砂の中に埋めて、嵐が通り過ぎるのを待つのである。この時、口、鼻を防ぐ物がない者は必ず倒れてしまう。
 人々は、この砂漠のことを死の海と称し「いったん足を踏み入れたら、二度と帰ることはきないところ」と言って近づくことすら恐れていたのである。七世紀の頃、この地を旅した僧、玄奘は「城郭あれど人煙なし」と語り、もはや楼蘭が、住む人のない廃墟になってしまっていることを書き記している。
 楼蘭は砂の中に埋もれてしまったが、前二十世紀頃のこの地域には、湖もあったし、植物も豊富であったに違いない。
 発掘されたミイラ(楼蘭の美女)が、前一八世紀頃の人物だとすると、一体この人たちはどこからやって来たのだろう。コーカソイド(白人系)だということを考慮し、しかも美女のポシェットに小麦の種、などを考えると、灌漑農業が盛んで、麦による農耕を富の基盤として生活していた人種、シリア辺りを想像せずにはいられない。
 シリアと言っても、オリエント時代には、メソポタミア、アッシリア、バビロニアと、支配者がめまぐるしく変わってきた歴史があり、どの時代の人々が楼蘭へ移住して来たかは定かではない。
その人々はシリアのどの辺りに住んでいたかは分からないが、二一世紀の現代でも、難民が続出しているシリアの現状から類推しても、戦乱の惨状を推し量ることは出来る。とにかくその時代、人々の苦しみは想像を絶する有様であったに違いない。町ぐるみの話し合いが何度も開かれた筈だ。
「来る日も来る日も、人が殺されている。この状況を脱するには、この土地を逃れて何処かへ避難する他ないと思うが?」
「年寄りや、体の悪い者はどうする!」
「…………」
「とにかく、この町に置いて行くわけにもいくまい」
「私は八〇才になるが、遠方までは歩けない。老人や病人は置いて行け! 我々の子孫を絶やしてはならない」
「そうは言っても、……」
「わたしも、大好きな父を置いては行けないわ」
 話し合いの結果、約半数の人々が残ることになった。ある老人がいる家の娘は、子供だけを知り合いに頼み、自分は残る決心をした。